3.せいじゃく
珍しくそこに、文乃くんの姿がなかった。
いつもは真っ先に『此処』へ来て、ベッドの上で猫のように丸くなって寝転んでいたり、布団を被っていちご大福のように丸くなっていることが多いのだが、布団も綺麗に折り畳まれたままで寝転んだ形跡もなかった。
あまりにも静かな白い空間。
薬品棚から絆創膏を拝借して、先程の授業で切り傷をつくってしまった指に巻いて応急処置を施した。
関節部分なので多少の動かしにくさはあるが、日常生活においてそこまで不便ではなさそうなので一先ずは安心である。
暫く、椅子に腰掛けてぼんやりとその空間を堪能した。
何分、否、何十分とそうしていただろうか。
気付けば時計の針は昼休みの始まる時刻を指し示していた。
「休みかと思った」
扉を開けながらこちらに気付いた文乃くんが、そう言った。
「ぼーっとしていました」
「あれあれあれ~?文乃が居ないから寂しかった?」
「静かでとても落ち着きました」
「あっそ」
文乃くんはそれ以上、何も言ってこなかった。
ああ、なんと珍しいことが重なるものだろう。
明日は雪でも降るのだろうか。
そんなことを考えながら、僕はカラカラと小さな音を立てて窓を少し開けた。
「ねぇ、寒い」
「今日は真夏日ですよ。もう初夏ですね」
「文乃は寒いの!閉めて!」
「しかし、マニキュアを塗るなら換気をしないといけません」
「…目敏い」
「文乃くんのことは誰よりも見ているつもりですよ」
「寝言は寝て言うものよ」
ふむ、と小さく声を漏らし目を細めて、僕は頭上に疑問符を浮かべた。
「起きている時は何と言うのでしょうか」
「スマホで調べなさいよ。文明の利器が泣いてるわ」
「携帯を携帯する癖がないもので。確か鞄の奥底にあったはず―――…ですが、見当たりませんね」
「あんたは鞄に入れる物が多すぎるのよ。何をそんなに持ち歩くものがあるんだか」
「殆ど文乃くんの荷物ですね」
「今日はどのデザインにしよっかな~。あ、このフレンチ可愛い~!」
僕の言葉は華麗に無視され、その後も同じ話題が続くことはなかった。
「ねぇ」
「はい」
「どっちが可愛い?」
スマホを僕の眼前に突き付けて、そう問うてきた。
「どちらも文乃くんに似合っていますよ」
「は?そんなの当然でしょ。どっちが可愛いか訊いてるの!!」
ぷんすこと怒りながら、早く!と急かしてくる文乃くん。
20秒ほど悩み考え、僕が出した答えは、
「こちらの方が今日の文乃くんに合っていると僕は思います」
第三の選択肢。
「……………」
僕とスマホの画面を交互に見つめ、眉間に深く皺を刻んだ。
「ダサい…」
「感性は人それぞれですから」
「仕方ないから今日はこの最高にダサいデザインにしてあげるわ」
「光栄です」
こんなに細かい柄を選ぶなんて信じられない、とぶつくさ文句を言いながら文乃くんは少し伸びた綺麗に整えられた爪に透明のベースコートを丁寧に塗っていく。
「僕がやりましょうか?」
「とてつもなく不器用なのいい加減自覚したら?」
「努力します」
「知ってる?努力が報われるとは限らないのよ」
「では、せめてもの救いとして頑張った過程だけは認めてください」
「現実はそんなに甘くないわ。諦めて頂戴」
ふふ、と文乃くんは小さく笑った。
開いた窓から入る風に、カーテンがゆっくりと優しく揺れる。
穏やかな気候にうたた寝してしまいそうになるのを我慢し、窓際に立ったまま伸びをし身体を解す。
「そういえば、先日のデート。楽しかったですね」
「デートじゃないし。荷物持ちで喜ぶなんて相変わらずの変人ね」
「文乃くんの隣に立てるだけで楽しくなります」
「変人っていうより変態だわ」
「そうでしょうか」
「そうよ」
ベースコートが乾いたことを確認し、文乃くんはその上に色を重ねていく。
文乃くんの爪が僕の提案したデザインに染まっていく。
数時間後には流れ落ちるであろうそれを想像し、なんて儚いんだろう、と思いながら部屋に香り風で抜けていく特有のにおいを嗅いだ。
「あんた、随分と暇そうね」
「だから言ったんですよ。やりましょうか?って」
「あんたがやると現代アートになるからお断り」
「おや。美術館からお声が掛かってしまいますね」
「眠いなら寝ていいわよ。今日はベッド使わないから」
「バレてしまいましたか」
ではお借りしますね、と文乃くんの背に向けて言葉を投げかける。
文乃くんからの返事はなかった。
眠気に襲われ、うとうとしている僕はベッドに寝転んでぼんやりとした思考のまま考える。
今日の夕飯は、何にしよう。
たまにはフレンチトーストだけでもいいかな、なんて。
太陽の熱で暖まった布団の心地良さを感じながら、僕は夢に意識を飛ばした。
眠る直前、文乃くんの声が微かに聞こえた気がした。